入学1日目 その1

 

いきなり卒業式の話を書いたけれど、次は入学式だ。って、もちろんそんな式はなかった。

そもそも卒業式とてシャトー・クロブジョの荘厳なお部屋で、アンヌ・グロをプレゼンターに招いてやるほどものものしく開かれたのはわたしの卒業年だけだったそうだ(なぜか教授陣が盛り上がったみたい)。

というわけで、授業初日はまぁ始業時間までに教室に入ればいいだけなのだけど、これがまぁ緊張する。初めて足を踏み入れる大学構内であり、観光エリアとはまったく雰囲気が違うからだ。右も左もさっぱりわからない。

なにせ、わたしはその前日にフランスに到着したばかりであった。

この顛末がまた、わたしの行き当たりばったり人生にふさわしいどたばたで、授業は月曜日スタートなので飛行機は、土曜日の夜便を予約していた。到着が翌朝4時というとんでもない時間ではあるが、夜までゆっくり準備ができ、現地では朝から行動できるというなかなか便利なエールフランスだけのフライトである。CDG空港からパリのリヨン駅まで移動して、TGVでディジョンへ。駅にはホストファミリーが迎えに来てくれる、というスケジュールを組んでいた。

ところが、前日の金曜日エールフランス航空から電話があった。

「パイロットのストライキがあり、飛行機の便数が大幅に減ります。予約されていた便はキャンセルの予定ですので、できましたら他の航空会社に変更してもらえないでしょうか」

出たぁ、フランスのお得意のストライキ。

2年間の滞在中、あまりに頻繁に行われるのですっかり慣れっこになったが、このときは焦った。うー、わたしはどうしても日曜日までには到着していなくてはならない。

「幸い、全日空に土曜日の午前便に席がございます。いかがでしょう?」

いかがでしょうと言われても受け入れるしかないではないか。これが唯一、大学初日に間に合うフライトなのだ。

ホストファミリーは日曜日からしか受け入れられないと聞いていたので、急きょディジョン駅前に土曜日のホテルを予約する。パリ~ディジョン間のTGVの予約も変更する。夕方出発だから適当にしていた荷物のパッキングも慌ててやり、半分徹夜になった。

そして、土曜の朝、成田へ向かった。無事チェックインし、予定時刻通り機内に乗り込む。一波乱あったけれど、いよいよわたしのフランスライフのスタートだ。と胸は高鳴る。ヨーロッパにはすでに何十回も行っているが、暮らすのは初めてだ。テンションが上がるのも無理はない。

ところが。

 

いくら待っても機体は滑走路に向かわない。そのうち、アナウンスが入る。

「ただいま、電気系統に不備があり、調整中です。いましばらくそのままお待ちください」

待つこと30分。

「現在整備を点検中です。ご不便をおかけしますが、いましばらくお待ちください」

待つこと50分。

「まだ調整が続いております。懸命に修理に取り組んでおりますがもう少々時間がかかる見込みです。」

待つこと1時間30分。

「この機体は、使えなくなりました。みなさま、一度飛行機を降りて、代わりの飛行機に乗り換えていただきます」

なんだよ。ダメなら最初からさっさと交換すればよかったじゃないか。

ぞろぞろ全員が出発ゲートまで戻される。

さらに待たされたあげく

「みなさまにお乗りいただく飛行機は、午後6時の出発となります。」

 

あ然。

 

夜9時発だったものを午前11時出発の便に変更するために、わたしがどれだけいろんな予約を変更し、パッキングに汗を流して間に合わせたと思ってるんだ。

さらに、午後6時が7時になり、結局乗れたのは午後8時を過ぎていた。なんだよぉ。結局は最初のエールフランスの予約とほぼ同じ時間じゃないか。

そもそもエールフランス便の欠航のために、TGVとホテルの予約を変更したのに、また、もう一度TGVとホテルを変更しなくてはならない。
ほんと、勘弁してくれよ。

怒りをぶつけようにも航空会社の人は慇懃無礼に平謝りするばかりで、助けてくれるわけでもなく。

はぁ・・・もうため息をつくしかない。

成田の空港内で10時間をぐだぐだと待ち、CDGには到着したのは深夜1時。そこから空港スタッフとなんだかんだ交渉して近くのホテルへ。自宅を出発してからまるまる24時間かかっている。

とことん疲れ果てていた。
初めての留学生活のスタートは、波乱の幕開けである。いや、まだ始まってすらいない・・・。

 

ついに卒業! ディプロムGet・・・と思ったら !?

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この1ヶ月半は卒論にかかりきりで、家にこもりっきりで、土日もなく朝から夜中まで机に向かってひたすらフランス語と格闘していた。
首も肩も腰もガチガチになり、 こんなに集中したことが人生の中にあっただろうかというくらいだったが、なんとか締め切りぎりぎりに完成し、担当教授からもOKをもらう。
その翌日には Vinexpoヴィネクスポというワイン見本市に参加するためディジョンからボルドーに向かった。そして、帰って来たら、今度は 卒論のプレゼンのために、準備でまた3日間、家と図書館にこもった。プレゼンは15分ほどのものだから、日本語ならたやすいのだが、当然フランス語なので、わたしの語学力では説明用の原稿を新たに作ってそれを読むようにしないと無理だからだ。
教授陣の前でするプレゼンが最終の試験となり、この発表の内容込みで評価がつけられ、無事卒業できるかどうかが決まる。
ありがたいことに、お褒めの言葉を頂戴したので気分は一気に楽になった。
その翌日からは今度はパリに滞在して、誕生日を連日、いろんな人に祝ってもらった。そして、パリから戻り、卒業式、という怒涛の日々が続いた。

さて、卒業式。
会場は、シャトー・デュ・クロ・ド・ブージョChateaux du Clos de Vougeotが選ばれた。
クロドブージョといえばブルゴーニュを代表するグランクリュのワインとして知られるが、その始まりは、12世紀に創設されたシトー派の修道院がこの畑を所有し、建物内で修道士がワインを醸造していた(正確には、修道士は修道院を一歩も出ることができないので、在家出家みたいな立場の人がここでは働いていたのだが)という長い歴史を持っている。
クロ、というのは、塀に囲まれたという意味で、ぶどう畑をぐるりと石垣の塀が取り囲み、畑(ブルゴーニュ最大のグランクリュ)のまんなかに中世に建てられたお城のような建物がそびえている。ワインの知名度の高さとブドウ畑と中世の館という取り合わせが絶好の被写体で、観光客もひっきりなしに訪れる人気スポットである。
 大学の講義でも宗教とワイン、修道院とブドウ畑の関連については重要なポイントだったから、締めくくりを飾る場所としてはたいへんふさわしい。

式は、ブルゴーニュ大学ゆえのコネなのか、一般の見学コースでは入ることができない一室を借り切って執り行われた。太い木の梁の天井とシャンデリア、重厚な インテリアの室内にイスが並べられ、普段より少しだけおしゃれした学生と教授陣、もうひとつのコースと卒業生もいたから総勢30~40人くらいだろうか。なかなかよい雰囲気である。

さて、そこに教授がひとりの女性をともなって現れた。
なんと、アンヌ・グロだった。
ブルゴーニュの生産者の中でもスター的存在である。彼女が卒業式のプレゼンターを務めるのだそうだ。

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(左がアンヌ・グロ、中央が責任者のジャッキー・リゴー。『アンリ・ジャイエのワイン造り』の著書がある)

いよいよ式が始まった。
まず、教授たちの挨拶があり、その後アンヌがひとりずつ学生の名前と卒論のテーマを読み上げ、横にいる教授が卒論ついてのコメントをする(それだけ論文が重要ってこと)。
そして、アンヌが学生に卒業証書を手渡し、ビズBizeをする、という形式で行われた。わがクラスメイトのモンドヴィーノおじ、ドメーヌ・ド・モンティーユの当主ユベールもニコニコとたいそうご機嫌で受け取っていた。
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(Monde Vinoの映画の中でもこういう顔をしょっちゅうしていたと思うが、ユベールのお得意のポーズ。)

地元紙の取材もやってきたし、わたしとしては、あの苦労がやっと終わったかと思うとなんともすがすがしい気分で、気持ちも晴れやかである。

クラスメイトの大学教授(今回2人の教授が受講していた。60代。ひとりは経済、ひとりは演劇が専門)にフランスでは卒業式はこんなふうなのか、と問うと、非常にめずらしい、という答えだった。1961年の大学革命以降、儀式ばったことはまったくやらなくなったそうだ。また、以前このクラスを 受講した人に聞いても、こんなことはなかった、という。どういう変化か知らないが、わたしにとっては、とても思い出に残る体験となった。

式のあとは食事会で、こちらもかつての修道院を改装したお城のような豪華なレストランで、ワインは持ち込み。当然、ド メーヌ・モンティーユとアンヌ・グロのワインが出てきたし、クラスメイトはドメーヌ・カミュについて論文を書いたので、マジ・シャンベルタンとシャンベルタンをご相伴に預かった。日本なら会費数万円クラスのワイン会だ。ウホホホ。

たいそうご機嫌な気分で、そろそろお開きというとき、学生課の秘書の人がわたしに近づいて来て、「今週末には用意が出来るから大学にディプロムを取りに来てね」と言った。

???

じゃ、いまわたしが手に持っているのは何?

???

それはアンヌ・グロがおみやげに持参したコート・ド・ニュイのぶどう畑の地図だった。そういえば、なんだか彼女がそんなものをくれるとは説明していた気もするが・・・。

けどさぁ、卒業式で、ひとりひとり名前を呼ばれて手渡される巻物、紙筒って、どう考えても卒業証書だと思わない?
ただの記念品なら、帰りにひとり1枚ずつお持ち帰りください、とかいって、出口に積み上げておけばいいじゃん。
(なぜ最初から紙筒に入っているんだ? とか、中に書かれている名前を確認しないで渡していいのか? とか、小さい疑問がなかったわけじゃないけど、ね・・・)

完全に卒業証書だと思い込んでいたわたしは、式の後、シャトー・クロブジョをバックに記念写真を撮ってもらいました。ハイ。よくあるでしょ、卒業式で、紙筒を胸の前に抱えるポーズで。

わたしの外国語理解は、前後の文脈と状況から類推して補っている部分が多くて、これまでも勝手な思い込みでボケまくってましたが、締めくくりの晴れの舞台でも、しっかりやっちゃいました。

いつまでたってもトホホな日々です。 (2009年9月7日 記)

本物のディプロムGET

 卒業式の数日後のこと。

 大学に、ディプロムをもらいに出かけた。

 っていうか、なんで卒業式で手渡さないんだっ!

 
 聞くと、どうも、間に合わなかったらしい。
というのも論文の提出が締め切りぎりぎりの学生が多くて(わたしもそのひとり。汗)、さらに卒論のプレゼンでは担当以外の教授も加わったから、彼らの意見も加えて採点するため、時間がかかったのだそうだ。

 そう、日本の卒業証書とは違って、こっちのディプロムには成績も記載されている(汗、汗、汗)。

 実際、日本で言う「不可」、の学生もいたようだ。あるクラスでは3分の一が合格点に達していなかった。結構厳しいものだ。

 そんななか、よくがんばった、とちょっと自画自賛。
とにもかくにも、無事ディプロマも受け取り、これにて全工程終了、でありまする。
話を卒論に戻すと、なぜこんなに苦労をしたかというと、ひとえに”フランス語で書く”、その1点にあった。
 テーマも構想もとうの昔にできていたが、方法論として当初はフランス語の文献をあれこれ引用して、最初からフランス語で書き始めよう、と考えていたのが間 違いだった。図書館に通い詰め、いろいろトライしたけれど、所詮、現状の語学力では無理があった。そうこうしているうちに締め切り期限はどんどん迫り・・・。

で、方針変更して、日本語で書いてから翻訳することに。

 日本語なら書く方はプロフェッショナルなのであっという間に完成し、結構悪くないものができあがったのだが、さて、ここからが難関。フランス語への翻訳がこんなにしんどいとは。
 自慢じゃないが、いまだに男性名詞か女性名詞か、動詞の活用はどうだったか、アクサンが付くか付かないか、アクサンテギュかアクサングラーブか云々、超初級レベルが覚えられていない。日常会話ではごまかせるので真剣に取り組んでいないものだから、いつまでたっても記憶が曖昧で、したがっていちいち辞書の助けを必要とする。
 もちろんボキャが貧困だから、それにおいてもいちいち辞書が必要で、1行訳すのにも恐ろしく時間がかかる。それが何十ページも書かなくてはならない。

 

 取り掛かった当初は気が遠くなりそうで、放棄寸前であった。

 ところがですねぇ。

 語学としての仏作文の宿題は嫌いなのでやらないくせに、テーマが自分が訴えたいことだと、これが、がんばれたですなぁ。フランス人にわたしの主張を分かってもらいたくて、分かってもらうには彼らの土俵で動くしか選択肢がないので、がんばれちゃったわけです。

 辛抱とか努力という言葉が辞書にないわたしの人生なのだけど、そんななかにおいては、かなり努力した日々でありました。

 結果として、教授陣には大変おもしろい、オリジナリティがありすばらしい、とほめていただいた。さらに、プレゼンの後は、クラスメイトからも絶賛された。
 ひとつには、あんなにフランス語がダメな子がここまでよくがんばったわね、というパラリンピック的な目線があったのだろうけど、フランス人受けを狙った中味でもあったし、狙い通り!、だったので満足感もひとしお。
 あんまり好きな表現じゃないけど、自分で自分をほめてあげたい、って感じでありました。



 
 後日、ブルゴーニュの地方紙に我らが卒業式の記事が掲載された。

 記事には、「受講者には、日本人ジャーナリストがいて云々」と、なぜか学生の中でわたくしのみ特別に個人的な言及がされておりました。ヒヒヒ。

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(2009年8月2日記)