<番外編>Grab さまさま。

 

わたしは外国でタクシーに乗るのがあまり好きじゃない。とくにアジア圏は、交渉制のタクシーが多い。ふっかけてくる相手に適正と思われる価格まで交渉するのに疲れるし、どこか発展途上国の裕福じゃなさそうな人を相手に、いじめているような気分にもなる。

メーターがあっても倒さないケースが多いので、それを指摘しないといけないという攻防もある。

たとえ、メーターを使ったとしても、今度は、遠回りするんじゃないか(実際そういったことは多数)、渋滞にはまってどんどんメーターがあがる、などと気にするのがストレスなのだ。

 

昨年、マレーシアのボルネオ島側の都市、コタキナバルを訪れたとき、やはり空港でSIMを買ったところ、Grabのアプリを勧められた。未知のアプリだったが言われるがままにインストールしてもらい、さらに使い方も伝授してもらった。

ちなみに、こちらもスカーフでびっちり頭を覆ったイスラムの若い女性だった。宗教の制約を受けて不便そうに思うけれど、スマホを自由自在に操っている。イスラム教徒というだけでひとくくりで語ってはいけないと、しみじみ思う。

 

さて、Grabというのは、簡単に言うとUberの東南アジア版で、現行、マレーシアやインドネシアなどでは両方のシステムが使えるそうだが、Uberがクレジットカード登録するのに対し、こちらは現金払い。また、出発地点と到着地点をインプットすると料金が現れ、それで確定するので、遠回りしようがどうしようが最初の料金のままなので、精神衛生上たいへんよろしい。

しかも、安い。

例えば、コタキナバルの空港から市内までは、空港タクシーが固定料金で30リンギットだが、Grabだと10リンギットだった。1回でSIMカード分がペイする。

コタキナバルは、日差しが強いうえに交通渋滞が激しく排気ガスでむせかえるようであり、さらに歩道も整備されていない。そぞろ歩きが楽しい街ではなかった。歩行者にはやさしくないのだ。そこで、空港で入れてもらったアプリGrabが大活躍した。もう、毎日フル活用。

今回のバリでまだ、2カ国目だけれど、顔写真があること、乗車後に客が運転手の評価をするので、態度はおしなべて好感がもてる。そもそもアジア圏で自家用車を持っているのは中流以上だろうから、英語が話せる人が多いし、クルマのグレードも悪くない。

これまではタクシーとの交渉を思ってためらって歩いていたところも、さまざまなストレスから解放されるので滞在中は実に頻繁に活用させていただいた。帰りのタクシーが呼べるのかと不安な場所も安心して行ける。旅のスタイルがこれによってがらりと変わったのだ。

ただし業界からは反発があり、バリ島では、例えば空港やホテルで、Grabの車は敷地内に入ることができない。タクシーで生計を立てている人たちにすれば死活問題だというのはよく理解できる。パリでも3年前にUberに反対するタクシー業界のデモがあり、シャルルドゴール空港がタクシーの列で封鎖され、友人の乗る飛行機が飛ばなかったという記憶がある。

 

とはいえ、やっぱり便利でストレスフルなのは代えがたい。

まさに、グラブさまさま、なのである。

 

<番外編 世界あちこちひとり旅 >何はなくともSIMカード

それが旅の第一優先順位になったのは、2年前のこと。スマホ使用率が世の中の5割を超えたころやっと私もスマホにすることにした。目的は海外で現地のSIMカードを使いたいから。

足を踏み入れたことのないアップルストアに勇気を持って入り、3分で10万円の買い物をした。

その3日後、そのIPHONE に初めてSIMカードが入ったのは、オーストラリアはパースの空港だ。IPHONEにヴァージンがあるとすれば、処女はオージーにささげたことになる。

 

以来、その便利さと、何より日本の価格が信じられないくらい(どれだけぼったくりかと思う)安いのに味をしめて、各国の旅で愛用させていただいている。

 

今回は、バリ島。空港に着いたのは夜遅かったので、翌日に購入を目指した。

いまやどの町でもいちばん目立つのが携帯ショップなのは日本に限らないのだが、ここバリのリゾートエリアにおいては、それがまったくない。何ということだ。

賑やかなエリアに行けば、いとも簡単に買えると思い込んでいた。ところが、よくある派手な看板がどこにもない。代わりに両替所はやたらあるのだが。

リゾートウエアやアクセサリーショップが並び、旅行者で賑わっている通りは、いくら歩いても、そのなかにSimの文字はおろか、TELの文字も見当たらない。

しびれを切らせ始めた時にようやく見つけたのは、小さなうらぶれた土産物屋の店先。よれよれの段ボールに手描きのSimの文字。一応、値段を聞いてみると「25万ルピー」ざっと2300円くらい、という。うっそー、と交渉を始めたら20万、18万、16万と下がり、最後は12万まで来た。でもそもそも怪しげな店だし、こういう人にスマホを預けてセッティングしてもらうのは嫌なので、立ち去る。

が、歩けども歩けども、その後一切見つからない。そこでだめもとで、スーパーと両替所を併設しているちょっと大丈夫そうな雰囲気のところに。すると、たばこなどの対面販売のところに、当たり前のようにおいてあった。

「いくら?」「いちばん小さいギガ数ので20万」

うーん、これが相場なのか。

いちおう、お店だし、定価販売そうだし。

決心がつかないまま、さらに道を下る。もう一軒、ちゃんとしてそうなスーパー的なところでも聞いてみる。

やはり20万(約1700円)との返答。そうか、それが相場なのか。

なにせ、初めて買ったオーストラリアでは、5ドル分の国際電話通話料込みで8ドルだったものだから(つまり600円、実質240円!で1か月)、どう考えても物価が安いだろうインドネシアでそれはないんじゃない、という思いが強い。

 

さらに、さらに、歩いていると、初めて携帯会社の宣伝幕のようなものが目に入る。ただ空っぽのガレージのような場所で、奥深いところになにかあるような・・・こわごわ奥に進みハローと声をかけると、遠くの暗がりの中から思いがけず返事が聞こえた。

そこにはイスラムのスカーフをまとった若い女性が座っていた。古ぼけたガラスケースの中にはSimが並んでいた。それに珍しく商品に値段が貼ってある。安いのは7万ルピアだったが、彼女がこちらの会社のしかセッティングできないと進めたのが10万ルピア。30GBとあり、とてもそんなには必要ないが、お願いした。

寡黙に、てきぱきと指を動かしていく彼女。他の国でも思ったのだが、その動きには何の迷いも無駄もない。日本語の表示になっていることなど関係ないのだろう。こちらはただぼんやりと眺めているだけ。

彼女は、こんな奥まった薄暗い穴倉のような場所で一日中店番をしているのだろうか。眺めているしかすることがないので、思いはあちこちに飛ぶ。よく見るとそこは木工製品の工房のようで、頭上では竹の風鈴のようなものがたくさん吊り下げられており、コォン、ポォンとのんびりした音が風に揺られて奏でている。

通りを歩いていれば、ひっきりなしにタクシーの客引きにあい、店の売り子が声をかける旅行者相手の商売の喧騒に包まれているバリの繁華街で、ここだけが別の空間に入ったみたいに、静かで、ゆっくりとした時間が流れていく。もしかしたら、次に来た時にはもうこの場所はなくなっているのではないだろうか。時間の異相に迷い込んでしまったのではないだろうか。そんな不思議な感覚にとらわれていた。

やがて、すべての手続きが完了し、わたしは晴れてインドネシアでのスマホを自由に使える身となった。

シャンパーニュもヴァンダンジュ始まる

わたしのシャンパーニュでの定点観測地点。

朝7時。外は霧がたちこめ真っ白。気温は4度。真冬か!

午前7時のシャンパーニュ。この霧が高い品質のぶどうを生み出す
午前7時のシャンパーニュ。幻想的なほど。手前にあるのは、摘んだブドウを入れるケース。あらかじめ畝の間に配置しておく。

しかし、こういう朝は、この後天気が良くなる知らせ。3時間後の写真が次。

数時間後にはくっきりと晴れわたった。
数時間後にはくっきりと晴れわたった。

気温もぐんぐん上がり22度に。朝は、ダウンを着込み、マフラーや手袋で完全武装していたヴァンダンジュの働き手たちも、いつのまにか、短パン、Tシャツで汗びっしょりになっていた。

この気温差がぶどうの糖度を高め酸を保持し、おいしいシャンパーニュにつながるのである。

アルザスのブドウの村に収穫の季節が訪れた

見渡す限り一面の緑は、山の中腹まで全部ぶどう畑だ。

コルマールの南にあるWettolsheimのグランクリュ。サイクリングで回ると楽しいぞ
コルマールの南にあるWettolsheimのグランクリュ。サイクリングで回ると楽しいぞ

アルザスは8月の終わりに一足早くヴァンダンジュが始まった。

普段は音が吸い込まれるような静かな村々が、ブドウを運ぶ白いバンが行きかい、摘んだブドウを積み込むトラクターのエンジンがうるさい。うるさくはあるけれど、活気にあふれていて、あーまたこの季節がやってきた、と気持ちが弾む。天気は良く空気はすがすがしく、気持ちいいことこの上ないが、今年の収穫はある生産者によると30%減。天気のいい夏が続いたが、雨が少なかったのが原因。

フランス全体でも、今年は1945年以来最低の収量だと予想されている。景色は美しく、ツーリストには最高だけど、ヴィニュロンたちはあまりハッピーではないようだ。

ブドウ畑から見下ろす小さな村。アルザスはこんな中世そのままの小さい村がブドウ畑の中に点在している。
ブドウ畑から見下ろす小さな村。アルザスはこんな中世そのままの小さい村がブドウ畑の中に点在している。

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入学1日目 その1

 

いきなり卒業式の話を書いたけれど、次は入学式だ。って、もちろんそんな式はなかった。

そもそも卒業式とてシャトー・クロブジョの荘厳なお部屋で、アンヌ・グロをプレゼンターに招いてやるほどものものしく開かれたのはわたしの卒業年だけだったそうだ(なぜか教授陣が盛り上がったみたい)。

というわけで、授業初日はまぁ始業時間までに教室に入ればいいだけなのだけど、これがまぁ緊張する。初めて足を踏み入れる大学構内であり、観光エリアとはまったく雰囲気が違うからだ。右も左もさっぱりわからない。

なにせ、わたしはその前日にフランスに到着したばかりであった。

この顛末がまた、わたしの行き当たりばったり人生にふさわしいどたばたで、授業は月曜日スタートなので飛行機は、土曜日の夜便を予約していた。到着が翌朝4時というとんでもない時間ではあるが、夜までゆっくり準備ができ、現地では朝から行動できるというなかなか便利なエールフランスだけのフライトである。CDG空港からパリのリヨン駅まで移動して、TGVでディジョンへ。駅にはホストファミリーが迎えに来てくれる、というスケジュールを組んでいた。

ところが、前日の金曜日エールフランス航空から電話があった。

「パイロットのストライキがあり、飛行機の便数が大幅に減ります。予約されていた便はキャンセルの予定ですので、できましたら他の航空会社に変更してもらえないでしょうか」

出たぁ、フランスのお得意のストライキ。

2年間の滞在中、あまりに頻繁に行われるのですっかり慣れっこになったが、このときは焦った。うー、わたしはどうしても日曜日までには到着していなくてはならない。

「幸い、全日空に土曜日の午前便に席がございます。いかがでしょう?」

いかがでしょうと言われても受け入れるしかないではないか。これが唯一、大学初日に間に合うフライトなのだ。

ホストファミリーは日曜日からしか受け入れられないと聞いていたので、急きょディジョン駅前に土曜日のホテルを予約する。パリ~ディジョン間のTGVの予約も変更する。夕方出発だから適当にしていた荷物のパッキングも慌ててやり、半分徹夜になった。

そして、土曜の朝、成田へ向かった。無事チェックインし、予定時刻通り機内に乗り込む。一波乱あったけれど、いよいよわたしのフランスライフのスタートだ。と胸は高鳴る。ヨーロッパにはすでに何十回も行っているが、暮らすのは初めてだ。テンションが上がるのも無理はない。

ところが。

 

いくら待っても機体は滑走路に向かわない。そのうち、アナウンスが入る。

「ただいま、電気系統に不備があり、調整中です。いましばらくそのままお待ちください」

待つこと30分。

「現在整備を点検中です。ご不便をおかけしますが、いましばらくお待ちください」

待つこと50分。

「まだ調整が続いております。懸命に修理に取り組んでおりますがもう少々時間がかかる見込みです。」

待つこと1時間30分。

「この機体は、使えなくなりました。みなさま、一度飛行機を降りて、代わりの飛行機に乗り換えていただきます」

なんだよ。ダメなら最初からさっさと交換すればよかったじゃないか。

ぞろぞろ全員が出発ゲートまで戻される。

さらに待たされたあげく

「みなさまにお乗りいただく飛行機は、午後6時の出発となります。」

 

あ然。

 

夜9時発だったものを午前11時出発の便に変更するために、わたしがどれだけいろんな予約を変更し、パッキングに汗を流して間に合わせたと思ってるんだ。

さらに、午後6時が7時になり、結局乗れたのは午後8時を過ぎていた。なんだよぉ。結局は最初のエールフランスの予約とほぼ同じ時間じゃないか。

そもそもエールフランス便の欠航のために、TGVとホテルの予約を変更したのに、また、もう一度TGVとホテルを変更しなくてはならない。
ほんと、勘弁してくれよ。

怒りをぶつけようにも航空会社の人は慇懃無礼に平謝りするばかりで、助けてくれるわけでもなく。

はぁ・・・もうため息をつくしかない。

成田の空港内で10時間をぐだぐだと待ち、CDGには到着したのは深夜1時。そこから空港スタッフとなんだかんだ交渉して近くのホテルへ。自宅を出発してからまるまる24時間かかっている。

とことん疲れ果てていた。
初めての留学生活のスタートは、波乱の幕開けである。いや、まだ始まってすらいない・・・。

 

パルマより高級な生ハムって

 

前菜で出されたプロシュート・ディ・サンダニエーレ。香りがすばらしく、あっさりとしてこの量でもペロリ。
前菜で出されたプロシュート・ディ・サンダニエーレ。香りがすばらしく、あっさりとしてこの量でもペロリ。

ヴェニスから車で1時間ほど北上すると、やがてヴェネト州を越え、フリウリ・ヴェネチア・ジューリア州に入る。近年、ワイン、とくに白ワインの優秀なものが登場して注目の地域だが、ワインに欠かせない食材、プロシュートの最高級品を産する町があると聞いて訪れることにした。

その町の名をサン・ダニエーレという。そして、この街で生まれるのがProsciutto di San Danieleプロシュート・ディ・サンダニエーレ。

一般にはパルマのプロシュートが知られているが、実はこちらの方が値段も高く高級品なのだそうだ。

ワインにテロワールがあるように、この街の立地がプロシュート造りに適している。北に連なるヨーロッパアルプスからの冷たい風が吹きおろし、一方、アドリア海からは湿った暖かかな風が吹いてくる。それがちょうどぶつかり渦を巻く、マイクロクライメイトが存在する特異な地域なのである。
生ハムは肉の乾燥と熟成が重要だが、この風が小屋のなかの空気を循環させ、豚肉の乾燥させ、適度な湿気が熟成をうながす。いわば町の構造が天然の醸造工場となっているのだ。

だいぶ乾燥が進みぷんと張っていた肉がやや細くなり、肉の色がおなじみの生ハムらしい色になっている
だいぶ乾燥が進みぷんと張っていた肉がやや細くなり、肉の色がおなじみの生ハムらしい色になっている

もともとは四季を利用して、冬に脂がのった豚のモモ肉を用い、塩をすりこみ水分を落とす。春になり気温が上がると発酵が始まる。夏の間熟成する。再び冬になる頃に完成となる。現在は、この自然の原理を生かし、完全な温度と湿度管理のもとで年間を通して安定した品質で生産されている。

その工場におじゃますることができた。

第一段階はまだみずみずしい肉質のもも肉
第一段階はまだみずみずしい肉質のもも肉

豚はモモ肉の状態で来て、届いた肉は、計量と品質チェックをして、パスしたものだけが次へ進む。そこでは、肉の“マッサージ”をするベルトがあり、ベルトの最後の部分では機械で届かない部分を人の手でマッサージする。それにより、次の工程で塩を付けるのだが均等にうまく浸透するのだという。

塩を付けた以降は乾燥の工程。でも部屋がいくつもあり、次々に移動させていく。それは、温度と湿度を少しずつ変えて、発酵と熟成をうまく進めるためである。
最初はただの肉だったのが、部屋が進むごとに次第に身がしまり、色が濃くなっていく。

 

やがて、14キロの重量が11キロにまで減る。骨をのぞけば肉そのものでは半分の重量にまで乾燥させている。

この段階で、脂でおおわれていない切断面に油脂を塗り感想を防ぎつつ、熟成させる。ここでは25度くらいまで温度が上がる。

切断面に油脂を塗り、熟成の最終段階へ
切断面に油脂を塗り、熟成の最終段階へ

この後、馬の骨を削った棒状のものを肉に刺して、検査する。抜き取った棒状の骨の匂いを嗅ぐ、といういたって原始的な検査方法だが、人間の鼻で最終的にチェックして完成となる。

冒頭の写真の一皿をにあるように、ランチで食べたが、香り豊かでフレッシュで、やわらかく、塩味が絶妙。軽やかで、ぺろりと平らげた。

ちなみに、伊勢丹のデパ地下には、さすが伊勢丹だけあり、ちゃんとプロシュート・ディ・サンダニエーレが売っていた。パルマのプロシュートは100グラム1980円だけれど、こちらは2380円。ほんとに高級だった。

本家争い シャルマ方式

スパークリングワインを作る、つまり泡ものを作るには5つの方法がある。もっともよく知られているのがシャンパンなどに用いられるビンのなかで2次発酵をするトラディショナル方式。
これに対し、大きな密閉タンクで2次発酵を行うのがシャルマ方式だ。

知識では知っていたけれど、実際のシャルマ方式のタンクを見たのはプロセッコの生産者を訪れた時が初めてだった。そうか、普通のステンレスタンクの頭の部分が、キノコ頭みたいに丸くなっているのね。タンク内の圧力が均等にかかるようになっているんだ。でも、3つも並ぶと、ちょっとかわいい。

さて、トラディショナル方式はシャンパーニュで生まれた、というよりは十分に発酵しないまま瓶詰して暖かくなったら再発酵してしまう現象を取り入れた、ある種自然発生的なものだが、シャルマ方式は完全に開発されたものだ。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA1910年、フランス人のシャルマ氏が発明したとされている。しかしながら、イタリアにおいては、フェデリコ・マルティノッティが1896年にタンクでできないかと研究を進め実用化していた、のだそうだ。

彼は、アスティ(こちらもプロセッコと並んで、イタリアを代表するスパークリングワインで世界的に有名)の醸造学校のディレクターをしていた。この地区で造られるブドウの特性はトラディショナル方式では死んでしまうので、よりアロマが薫り高く残るように大きなタンクでの2次発酵ができないか研究していたのだという。

そうならば、10年以上前にイタリアが先んじていたことになる。つまり本来ならシャルマ方式ではなく、マルティノッティ方式と呼ばれるべきものだったのだ。

しかし、悲しいかな、ワインの世界ではフランスの方が幅を利かせていた。
いまからでも遅くない、イタリア人よ、特にプロセッコとアスティスプマンテの人々よ。わたしたちはマルティノッティ方式で造っていると、事あるごとに喧伝し、実はシャルマより早いんですよ、と言いふらせ。
ダーウィンにつぶされたウォリスの例もあるし、難しいかなぁ。

速報 プロセッコのブドウのいま

プロセッコのなかでも最高峰の畑とされるカルティッツェにて。開花から約4週間くらい。それにしても、房が大きいので驚いた。フランスのピノやシャルドネを見慣れているからだろうか。3倍くらいある気がする。これがグレラなんだね。
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フィリポナの矜持

クロ・デ・ゴワスは、シャンパーニュ地方では稀有な「畑名」を冠したシャンパンである。16世紀に遡る歴史を持つメゾン、フィリポナの最高級キュベとして知られている。

AOC原産地呼称の制度が厳格なフランスにおいて、シャンパーニュ地方だけは例外のルールが多く、基本的には、シャンパーニュ地方の全エリアで栽培されているブドウを使えば、それはすべてシャンパーニュと名乗れる。メゾンの隣の畑だろうが、100キロ離れた畑だろうが、斜面だろうが、平地だろうが、好き勝手に混ぜても構わない。
グランクリュが17の村に、プルミエクリュが38村規定されてはいるのだが、これもまた村に対しての指定であって、その村の区域にありさえすれば北向き斜面だろうが、水はけの悪いフラットな場所だろうがグランクリュを名乗ることができる。
ブルゴーニュのグランクリュと混同する人も多いかもしれないが、これはシャンパーニュ独自のルールだ。
ブルゴーニュでは、中世において特にシトー派の修道僧たちが長い歳月をかけてそれぞれの区画ごとの違いを極め、ワインの質を磨き上げてきた。
一方、シャンパーニュでは、かのドン・ペリニヨン修道僧が、やはり畑ごとに出来るワインが異なることを突き止めた。しかしながら、彼はそれらを混ぜることによってよりおいしいワインを造るという方向に進んだ。シャンパーニュはブドウ栽培の北限にあり、年によっての出来不出来も大きく、それを組み合わせることにより安定した味わいを作り出すという手法を確立したのである。
したがって、単一の畑だけのぶどうでワインを造る、畑名を名乗るというのが、シャンパーニュにおいてどれだけめずらしいかが容易にわかる。そもそもそういう発想がない地域だからだ。しかし、フィリポナは、それをすでに1935年に始めていた。

先日、フィリポナの当主、シャルル・フィリポナ氏が来日し、話す機会を得た。小柄で、細身、やさしい笑顔が印象的な、当主は、数えきれないほど聞かれたであろうクロデゴワスに関して繰り出すわたしの質問にもていねいに答えてくれた。
えっ?と思わず聞き返したのは、「50%しか使わない」と言ったときだ。クロデゴワスの畑から造られていてもその半分程度しか、クロデゴワスのシャンパーニュにはしない、というのだ。
クロデゴワスの名声を保つためには、下手な出来のブドウを混ぜるわけにはいかない、という。下手な出来といったって、そもそもグランクリュのアイ村にあり、そのなかでももっとも恵まれている畑なのだから、基本的に高品質のブドウであるはずなのに。
素人考えでは、ルール上全部のブドウを使うことは可能だし、そうすればクロデゴワスの生産量が増える。もっとも高い値段で売れるシャンパーニュだ。下世話な言い方をすれば、もっと儲かるじゃない、と思う。しかも偽装でも水増しでもなんでもなく、ごく正当な商品にできるはずなのに、である。
しかし、当主はそれをしないという。何と立派な。
結構感激して帰ってきたのだが、落ち着いて資料を読み返したら、クロデゴワスの面積が5.6ヘクタールとあった。
うっ。意外に広い。
ロマネコンティ1.8ヘクタール、ラ・ロマネ0.8haが思い浮かんだからだ。
いや、ブルゴーニュと比べちゃいけない。例えば、オーパスワンは68ヘクタールもあり、でもそのうちの7割くらいしか使わないと自慢げに語っている。
うん、やっぱり大変良心的。
長い歴史の間ずっとブランドを保ち続けることがどれだけたいへんなことか。
老舗メゾンの矜持がそこにあった。

ガレットデロワとシャンパンのボトル

新年になり、近所のケーキ屋さんで、ガレットデロワが売っていた。
いやぁ、こんなお菓子も日本で見かけるようになったんだねぇ、とフランスを懐かしく思いだし、一方で、いったい日本人はどれだけキリスト教の行事が好きなんだ、と突っ込みたくもなる。

というのも、これはエピファニーで食べるお菓子だからだ。
ね、エピファニーなんて知らないでしょ?

エピファニーとは、キリスト教の行事で、日本語では公現祭と呼ばれるようだが、1月6日または1月2日から8日の間の主日(日曜日)に、キリストの誕生を祝い、当方の三博士(三賢人)が訪れたという、聖書の記述に基づく。

フランスでは、年が明けると一斉に街中にこのガレットがあふれ出す。
クリスマスツリーも新年になってもまだ見かけるので、間が抜けた感じがするが、このエピファニーの日をを持って片づける。クリスマスに始まるキリスト誕生の祝いがここで収束するのである。日本で言えば、鏡開きか、松飾りを燃やすどんど焼きのような位置づけになるんでしょうか。

ガレットデロワ。ディジョンのケーキ屋さんにて。
ガレットデロワ。パイ生地にアーモンドのマジパンの中身で、いたってシンプルな見た目と味だ。ロワとは王様の意味で、紙で作った王冠をデコレーションしているのがポイント。Dijonディジョンのケーキ屋さんにて。

で、このガレットデロワ。見た目はいたって地味だが、実は楽しい仕掛けがある。
中に今はやりの“異物”が入っているのだ。
フェーブと呼ばれ、フェーブはそら豆の意味でもともとは本物のそら豆が入っていたが、いまはグリコのおまけのような2センチほどの小さい人形などが入っている。
みんなでホールのガレットを切り分けて食べると、中にフェーブが入っていた一切れにあたった人が王様、という趣向である。

ケーキのなかにはいっているフェーブたち。雪の中において撮ってみました。ホームステイ先のマダムがコレクションしてた。
ケーキのなかにはいっているフェーブたち。雪の中において撮ってみました。ホームステイ先のマダムがコレクションしてた。

これをコレクションしている人も多く、骨董市にいくと、フェーブのアンティークをよく見かける。

さて、これがなぜシャンパンと関係するのか。

シャンパンのボトルはサイズごとに名前があるのをご存じだろうか。
通常の2倍の大きさをマグナムと呼ぶのはまぁまぁ知られているだろうけれど、それ以上に大きいボトルが存在する。
2本分、4本分と続き最終的には20本分にあたるサイズまで作られている。そして、それぞれに呼び名があるのだが、12リットル入り、ボトル16本分のサイズをバルタザールと呼ぶ。

これが、エピファニーの由来となった、キリストの誕生を祝いに訪れた、東方の三博士の名前なのである。

いつ誰がボトルにこのような名前を命名したのかは定かではないが、シャンパーニュ自体が誕生したのが17世紀後半、ガラス瓶が普及したのが18世紀と近年のことだから、長い歳月の間にいつの間にかそういう慣わしになっていた、というのではなく、名付けた人がいるはずである。
他のサイズも、ナビュコドノゾールとか、マチュザレムとか、舌をかみそうな、覚えずらい名前ばかり。しかし、いずれもバビロニア王とか、アッシリア王とか旧約聖書から選び出したもので、威厳や迫力を感じるネーミングだ。
もしこれが、一升瓶のように、12リットル瓶、20リットル瓶などと普通に呼ばれていたらどうだっただろう。

後発のワインであるシャンパーニュの歴史を見ると、つねづね宣伝のうまさに感心してしまうのだが、巨大なボトルにものものしい名前をひとつひとつつけるアイデアもまた、なんといいセンスをしているのかと脱帽してしまう。